前回のWeekly教育ニュースで、高校数学における行列の扱いが見直される動きを取り上げました。行列はかつて数学Cで扱われていましたが、2012年度施行の学習指導要領で事実上削除されました。現行課程(2022年度施行)で数学Cに復活したものの選択的な扱いにとどまり、「行列ってそもそも何だっけ」という方も多いかもしれません。なぜ今「行列」がこれほど注目されるのかを、私自身が大学院で行列と格闘した研究経験も交えながら解説したいと思います。
行列とは何か
行列とは、数を縦横に長方形に並べたものです。数学の教科書では難しそうに見えますが、実はこれ、身の回りにあふれています。スマホで撮った写真は、画素ごとの色の濃さを縦横に並べた「行列」そのものですし、Excelの表も行と列で数値を整理しているという意味では同じ構造を持っています。行列の計算とは、こうした「数の表」同士をルールに従ってまとめて処理する技術のことです。一つずつの数を個別に扱うのではなく、何百万ものデータを表ごと一括して変換できる。この「まとめて処理できる」という性質こそが、膨大なデータを扱う現代の技術──とりわけAIと深く結びついています。
AIは行列で「考えて」いる
では、行列はAIとどうつながるのでしょうか。端的に言えば、ChatGPTの正体は膨大な行列計算の塊です。あの自然な文章の裏側では、膨大な行列とベクトルの計算が走っています。
順を追って説明しましょう。まずは「ベクトル」について。ベクトルとは、数学的には「長さと方向を持つ量」のこと。グラフ上の原点からある点に向かって引いた矢印をイメージしてください。ChatGPTは、インターネット上の膨大な文章を読み込んで単語同士の関係を学習し、あらゆる単語をこの矢印──ベクトルとして、巨大な空間の中に配置しています。「りんご」と「みかん」の矢印は近い方向を向き、「りんご」と「自動車」の矢印は全く違う方向を向く。こうして言葉の意味が、空間上の位置関係として表現されるわけです。
そして、ある単語のベクトルと別の単語のベクトルがどれくらい近いかを測るのが、高校数学でも登場する「内積」の計算です。ChatGPTが「この文脈なら次はこの単語が来るはずだ」と判断できるのは、内積によって単語間の意味的な近さを数値化しているからです。
ここで行列が登場します。ChatGPTが扱う単語は何万語もあり、それぞれのベクトルは数千次元。この膨大なベクトルをまとめて一括変換するのが行列の掛け算です。行列を一回掛けるたびに、すべての単語の関係性が一斉に更新される。AIが「考える」とは、この行列演算を何百層にもわたって繰り返すことにほかなりません。AI開発にGPU(画像処理用の半導体)が使われるのも、GPUがもともと画像──ピクセルの行列──を高速に処理するために作られたチップであり、AIの行列演算にそのまま転用できたからです。
行列を知ればAIの中身がすべてわかるわけではありませんが、AIの仕組みを「よくわからない魔法」ではなく「数学の言葉」で理解するための手がかりになります。
20年前の研究室で見た未来の地図
私は大学院で電波天文学を研究していました。電波望遠鏡の観測データは、空の各方向から届く電波の強度を縦横に並べたもの──つまり行列です。修士論文では、このデータをPython(とNumPyというライブラリ)で解析し、パラメータを変えながらシミュレーションを何百回と繰り返す作業を自動化しました。手作業では到底不可能な規模の計算を、コードで回せたのはPythonのおかげです。
当時、研究室でPythonを使っている人は少数派でした。周囲はFortranやIDLといった言語が主流だった時代です。それが今やAI・データサイエンスの主力言語になっています。なぜPythonが選ばれたのか。理由の一つは、NumPyによる行列演算との親和性の高さです。AIの学習も推論も、結局は大量の行列演算であり、それを効率よく回せる環境が必要だったからです。行列という数学が、20年後の技術の主役をすでに決めていた。研究室でPythonを叩いていた頃には想像もしませんでしたが、振り返ればその萌芽は確かにそこにありました。
大学1年の壁──線形代数
大学の理系に進むと、1年次に線形代数(行列の理論を体系化した数学)がほぼ必修で待ち構えています。この科目、高校で行列を学んだ予備知識のある学生でも苦戦する科目として広く知られています。抽象的な概念が次々と登場し、計算量も多い。ましてや行列を学ばずに臨めば、ハードルはさらに上がります。
現行の学習指導要領では、行列は数学Cに含まれてはいるものの、共通テストには出題されません。入試に出ない以上、学校で教える優先度は下がります。結果として、大学で線形代数が必要になる生徒であっても行列を十分に学ばないまま進学し、いきなり壁にぶつかるケースが珍しくないのが現状です。
必要な生徒には「ないと詰む」
行列をすべての高校生に同じ優先度で教えるべきかは、議論の余地があります。しかし、理系をはじめ大学で線形代数を使う分野に進む生徒にとって、行列は「あれば有利」ではなく「ないと詰む」基礎知識です。大学に入ってから初めて出会うのでは遅い、という声は大学側からも上がっています。
中央教育審議会の算数・数学ワーキンググループでは、2025年12月の第4回会合で高校数学の科目構成の見直しが議題に上がりました。注目すべきポイントは二つあります。一つは、現行の数学A・B・Cという枠組みをなくし、生徒が自らの進路に応じて必要な学習内容を選びやすい構成へと再編する案が示されたこと。行列は、ベクトルや数列、統計などと並ぶ独立した選択履修分野として位置づけられる方向です。
もう一つは、すべての高校生が学ぶ数学Ⅰに「社会を読み解く数学(仮称)」という新分野を設け、数理モデルやベクトルの基礎、数列と漸化式、確率と期待値など、AI・データサイエンスの理解に必要な素養を盛り込む案が示されたことです。行列そのものは数学Ⅰの必修範囲には含まれていませんが、科目の壁を取り払うことで、進路上必要な生徒が行列を履修しやすくなることが期待されます。
ただし、いずれも審議中の案であり、扱いの深さや実施時期は今後の議論に委ねられています。AI時代の人材育成として注目すべき動きだと考えます。
おわりに
20年前、私にとって行列は研究するための有用な道具でした。それが今、AIを理解するための共通言語になっています。数学が技術の未来を規定するのだとすれば、高校の教室で行列に出会えるかどうかは、その後の学びの選択肢にも影響するでしょう。生徒の可能性を閉じない制度設計を、期待したいと思います。
福原将之の科学カフェ AI時代の教育を、現場から考える